タモリ論から

超介です。

人の言うこと、書くことのうち、信じる、信じないは、目に見えないからではなく、誰がそれを言ったり、書いたりしているか、それによるところがおおきいですね。

目に見えない愛の力、その人が持っている可能性、これらは確かにあるのに、時として信じられなくて、見失ってしまう時もあります。お金とか、財産とか確かに目に見えるものは消えないので信じられます。でも時が経てば、それらでさえ形を変えたり、もちろん使ったり、あたりまえになって、あるのかないのか曖昧になります。

最近「タモリ論」(樋口毅宏 新潮新書)という本を読みました。この本の内容は、お笑いに詳しくない僕にとって、面白かったです。(僕には)見えないお笑いの世界がその中に広がっています。筆者はある漫画からのフレーズ(「海を知るものは賢者であり、海を語るものは馬鹿だ」)から海を笑いに変えて「笑いを知る者は賢者であり、笑を語るものは馬鹿だ」と書いています。

読んだ時に、なかなか理解できない、というか入り込めない本があります。そいう時はやめてしまうか、それとも無理やり読み切ってしまうかですが、この本はそんなに分厚い本ではないので読み切りました。そして読み切った後で、入り込めない理由をページをくりながら考えた時、僕は、多分「笑いを知らない愚者」だろうと、多分そうだろうと思ったのです。笑いを知っている者は読むことにもっと集中できるんだろうと。

笑いを知る賢者であれば、語られることが伝わる、でも知らない愚者にはそれは伝わらない。語りだけでは伝わらない(伝わりにくい)ことがある、ということです。笑い(何がどう、おかしいか)も目に見えにくいですから。

ですから、知らない愚者に伝えることができる人、とはその発する言葉にある種のパワーを詰め込めることができる人です。

僕が笑いのこと、筆者のこと、あるいはタモリのことをよく知っていれば、もっと面白く読めるのでしょう。そのことが分かって、そして言葉で表現して伝わることの限界があることを意識したのです。さらに、愛、可能性など見えないものを伝える力のある言葉を持つ人になるため、しっかりと学んでいこうと、今、思うのです。これは、学習塾で働いてきた体験からも痛切に思うことなのです。大切なことを伝えるパワーを持とうと。

One thought on “タモリ論から”

  1. キヨシです。
    知らないからこそ、
    見えるものがある。
    コーチングに出会った時に
    教えてもらった言葉です。

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