令和4年度版 JYDA GUIDE
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29田中元会長 追悼ページHSKの父 田中潤治顧問へ      私が田中顧問と初めてお会いしたのは、すでに会長職を退かれ、2年近く経った頃でした。御年76歳のころだったように記憶しております。英会話も堪能で、頭の回転が速く、いつもウイットに富んだジョーク混じりの会話がお得意で、お会いした人から笑顔を引き出される天才でした。  その姿勢は16年経った数か月前まで変わらず、私とのお電話で第一声に毎回、「あっ!本田さん まだ生きとるデー!」とお話しされる声が、本当に懐かしく思い出されます。もうあの会話ができないのがさみしい限りです。 いろいろな思い出はありますが、一つ上げるなら毎年、花見の時期にご自宅を開放し、100名以上の方々をお招きして行われる大花見大会、 私も数度参加させていただいたことあります。広いお庭に茣蓙を敷いて、参加者皆、車座での大宴会です。田中顧問らしいのは 花見なのに、ご自宅のお庭には花はなく、お隣のお宅に咲いた花を田中家から眺めるという、なんとも愉快で、ほほえましい企画。ここにも田中先生らしさがでてお誘いいただくとついつい参加したくなる会でした。これが何年も続けておられました。このイベントの時の挨拶や皆様への配慮、お気遣いはとても当時の年齢からは考えられないことでした。私は田中先生の人となりを紹介するとき、今でもこのエピソードを話しております。そんな先生が、私、いや日青協に残してくださったものは大きく、アメリカ交換交流の留学事業に代表される国際交流事業、現在は林常任理事によってしっかり受け継がれております。 そして何より1999年から2009年まで、受験生が2000名の頃から、ご家族で粛々と続けてくださっていたHSK事業は、今は日青協を支える大黒柱に成長しております。 残してくださった偉業を想うとき、さらなる感謝の想いが湧き上がってまいります。 これからも先生の明るい空気を受け継ぎ、次世代につないでいこうと思っております。天国でもお花見を楽しみながら、我々を見守っていただければ幸いです。合掌 事務局 本田田中潤治元会長の思い出     田中元会長を語ると、どうしてもそれは私の思い出になってしまうのですが、お許しください。田中元会長との出会いには奇遇なものがあります。 今から30年程前の1993年の秋のことです。当時、外資系の「国際交流・留学団体」が日本の支社長を募集しており、私はそれに応募し採用されることで「国際交流・留学」の業界に入ります。 その時の採用担当のアメリカ人が、私を強く社長に推薦してくれました。そしてその彼は、日本に留学・インターンシップ経験があり、そのインターンシップ先が、関西での「国際交流・留学」のドンであった田中元会長の国際交流・留学団体でした。採用されてすぐに彼と一緒に、当時、北梅田にオフィスのあった田中元会長のもとへと挨拶に行きました。その時、まだ右も左もわからない私は、田中元会長から「国際交流は日本と世界のための事業やから、頑張りなはれ!」との励ましを頂きました。 田中元会長のもとで「日本を学習」した人間のおかげで私がこの業界に入ったわけですから、既にその時に、「田中会長のおかげ」で業界に入ったということにもなります。 そして、それから8年後、私は田中元会長(その当時は会長)のお声掛けにより、社団法人・日本青少年育成協会で働くことになるのでした。勿論、その8年間も、同じ業界にいたわけですから、様々な指導を頂きましたが、日青協に入ってからは特に、理念先行型の私を認めて下さり、私が「中国が好き」だと知るとHSKの日本と中国の未来について色々と教えて下さりました。 田中元会長は初期のHSKを育て、守り続けただけでなく、文字通り、国際交流に尽力され、地元、豊中市日中友好協会の会長としても活躍されました。上海事変後の日中が戦争状態にあった最中の、魯迅と西村真琴との交流「三義塚」の記念碑の顕彰には特に尽力されました。 記念碑に刻まれている、魯迅が西村真琴に送った「題三義塔」の詩の最後の行が印象的です。度尽劫波兄弟在 相逢一笑泯恩仇 つキン―  劫波ヲ度リ尽セバ兄弟在リ,相逢ヒテ一笑スレバ恩仇泯―  戦争のような大変な波風がたっていようと、兄弟と同じで友は友である。また会えば、にっこり笑って仲良くできる。 田中元会長のオフィスにはこの記念碑の拓本が飾られていました。 田中元会長の国際交流のご遺志を継ぎさらに精進したいと思います。田中会長、ありがとうございます!常任理事 林令和4年度 計画田中元会長追悼

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