かけはし vol.13
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内省力と客観性が身につきました別の視点自分とは異なる存在だと認めつつ分かり合えると信じる広い世界への扉を開くキッカケに欲しいものは不自由なく手に入る日本での暮らしから、主張しなければ自分という人間を理解してもらえないという環境に身を置くことは、一種の修行とも言えます。自身がどのような人間か、否が応でも向き合い、周囲の人々の優しさと支援に感謝しながら「こうありたい自分」に近づくために生きていく。そのような1年となるでしょう。私は留学を通して、自身の言動や感情を振り返り、目指すもの、望むものを明確にする「内省力」、そして周囲における自身の役割をモニターする「客観性」が身に付きました。それらの力は現在、日本と海外を深く理解していることが求められる国際機関での勤務に生かされていると感じています。高校留学から得られた最大の学びは、日本国内では決して得られなかった「別の視点」だったと思う。高校生という多感な時期に「米国」という非連続的な環境に身を投じることは、決して楽ではなかった。ホストファミリーとの共同生活は楽しさもあったが、文化や考え方の違い、コミュニケーションの壁で葛藤する部分もあった。ただ家族の一員として扱ってもらうことで、米国社会を内側から見る機会を得られたのは、高校留学ならではの醍醐味だったと思う。米南部の「バイブル・ベルト」と呼ばれる教会コミュニティーなどは実際に身を置いてみないと感覚的に理解できるものではない。1年の米国生活は、その後の視野や行動範囲を広げるのにも大いに役立った。私が開設する法律事務所には、日々、法律相談のために人が訪れます。目の前にいる相談者はほとんどが日本人であり日本語を話しますが、そうだからといって相談者が語りかけたい内容を私が阿吽(あうん)の呼吸で理解できるわけではありません。相談者と私の共通点はわずかに日本語というツールを使って会話をできるということに限られているとも言えます。生まれも育ちも異なる相談者と弁護士が、ある案件について共通の理解に至るためには、「分かってもらいたい」という相談者の想いと「分かってあげたい」という弁護士の想いが重なる必要があります。この想いがあれば言語が異なる者同士でも理解し合うことは可能ですし、それがなければ日本人同士でも想いは通じません。目の前の相手が自分とは異なる存在であることを認めつつ、相互に分かり合うことができると信じること。その確信の基礎には20年以上前の高校生の多感な時期に約1年間を米国で過ごした経験があると思います。留学体験は確実に今に活きていると言えます。ホームステイ先は人よりも牛が多いような村で、3階建以上の建物もありません。英語は文法なんてお構いなし、ハンバーガーは味がなく肉も硬い。日常生活のほぼ全てが、思い描いていた「憧れのアメリカ」のイメージを砕きました。れたこのリアルな世界が、私の価値観を柔らかくし、広い世界への扉を開いてくれるキッカケとなりました。今の私のスタートラインです。高校生という多感な時期に触  ■   7 ■ ■特集プログラム卒業生のコメント冨永さおり外国政府機関 勤務久保庭総一郎大手新聞社ロスアンゼルス支局長太田敬一郎弁護士16歳で見た、本物のアメリカ。■■■■■■■ ■ ■ 令和元年度 活動の軌跡「今では私の方が教えてもらったり、お世話になってばかり…」と林委員長は嬉しそうに語ります。1学年間のプログラムが終了したあとも様々なかたちで卒業生と林委員長との交流は続いています。当時高校生だった生徒たちがそれぞれの分野で立派な社会人となり活躍しています。コメント全文は日青協ホームページにて公開中!COMMENTCOMMENTCOMMENTCOMMENT「高校生1学年間交流プログラム」の10年後、20年後の成果プログラム卒業生のコメント

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