かけはし vol.13
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修羅場の到来修羅場は、最高の教育の場作する機会に恵まれたのです。コメディ映画だったのですがこれが大ウケ。3年連続クラスで映画を作り、特に2年・3年の時に脚本・監督した映画は、文化祭終了後に「アンコール上映会」が開かれたほどでした。この作品への力の入れ様からかつて味わったことのない充実感を得られたと同時に、初めて自分の得意分野に出逢った感覚がありました。これが後々、今の仕事との出逢いにつながるのですが、他人を楽しませることは何よりも充実感が味わえるという確信を得たのです。映画製作の道は大学でも続き、3回生の時、「関西映像フェスティバル」でグラ本田:今につながっていることは?木村:この経験は、今の木村塾、という本田:話は変わりますが、ンプリという栄誉をいただくことになりました。この道は楽しい、他に負けない才能の自覚もある、一生のものにしようと思ったほどの出逢いでした。か自分発見に直結しています。私が作成した映画は、ほとんどが自分の半生を描いたもので、「ダメな男が、ダメなりに一生懸命生きていく」というテーマに沿ったストーリー。ちなみに受賞した作品のタイトルは、「気分は断然ジェームスディーン」でした(笑)。「気分『だけ』は断然ジェームスディーン」なんだけど、姿や行動がそれについていかない男の悲哀を面白おかしく描いた映画で、バカ受けしましたね!そしてその時、日の当た3      らない自分でも他人を喜ばせることができる、さらにその喜びが自分の喜びになる、ということを実感しました。このことを指針に将来の仕事探しをして、それが今につながっています。先生は高校生のときに交通事故に遭われています。製作に夢中になっている時でした。高校3年の夏休み、8月28日のことです。今でも鮮明に覚えています。足を複雑骨折、ならまだいいですが、粉砕骨折っていうやつで、骨が皮膚の外に飛び出して細かに粉砕している状態でした。普通なら足を切断するレベルの骨折です。骨がつながりにくい状況で、3年間の闘病生活を送ることになりました。いつ治るかわからない状況下、数回にわたる手術を繰り返し、ベッドから降りることを一切禁じられ、足をベッドの上でずっと水平にするという体勢を何か月も強いられました。…地獄でした。この時、「やっぱり自分は不幸の星の下に生まれてきたんだ!」ととことん思いました。いや、確信しましたね。日青協の増澤空会長がよくおっしゃっておられますが、そこから学んだことは?ない時期でした。高校3年生という多感な時期、それも進路も決定しないといけない時期に結局入試も受けられず、他人より2年遅れで受験、 大学1年の1年間木村:実はちょうど、その大好きな映画本田:「修羅場は、最高の教育の場」と木村:学んだというより、絶望しか見えはずっと松葉杖でした。松葉杖の生活を実に3年間強いられました。そんな中、覚悟を決めたんです。身体障害者の認定を受けよう! れから生きていく上で何かと役に立つのでは、と。ある意味開き直りです。その認定ができる先生は市内に一人しかいなかったのですが、認定を受けに行ったまさにその病院で偶然にも名医と出逢い、私の足は奇跡的に治りました。 当時は治りたい一心でした。今から思うと、そういえばあの時の開き直りから光が…とも思えますが、ただ言えることは、絶望した時から何かが始まる、完全に希望を失った時から何かが始まるということを、身をもって体験しました。ですから、絶望の淵にいる子、置いてきぼりにされている子たちを勇気づけることに「生きがい」を感じています。をした人がいよいよ仕事を選ぶ時期、そして『木村塾』が産声を上げるわけですが、そのあたりもお聞かせください。ました。当時の大学に来ていた求人は、「モノを売る仕事」がほとんど、いや全てと言っても過言ではない状況でした。この時点で私の心は決まりました。自分が進むべき道はこれではない、映画に出逢い、自分を見つけた時の感覚は、こんな自分本田:すごい体験でしたね。そんな経験木村:私の就活は、ものの15分で終わりその方がこ■■■■■■■ ■ ■ 令和元年度 活動の軌跡■■■■■■■■

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