思い込みのあやうさ(その3)

4A22C95F-CF44-4F11-80FC-6CFD13E3E40E超介です。
自分には数学ができない、と思い込んでいる人がいたとします。塾を運営しているとよく出会います。
その思い込みはなかなかはずしがたいです。チャンスは自分にできることを取り扱うことから生まれます。その目的は自信をつけてもらうことです。できない重力圏から、自由な宇宙空間へ飛び出す時に必要な最低限のエネルギーを蓄えてもらうことです。
そのために私がコーチとしてやっていることは、環境の整備と提案です。やってはいけなくて、かつできることは、やはり、このひとはできないんだ、という思い込みです。これを脇においておくことです。さらに、提案をしてそれを受け入れてくれなかった場合に、それを私が承認できること、そのような提案しかしないことです。
この間の事情は結構複雑です。かつ心の中で行ったり来たりがあります。こうしようか、ああしようか、とかその提案がどこからきているのか考えたり、迷ったり。
極端な場合、表向きは提案を装っていても、実はじぶんの思い込みを確認するために提案して、やっぱりできないね、という確認を得るための行動ではないか、とか。
スマートではありません。結構ドロドロやってます。
 

思い込みのあやうさ (その2)

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そうであろう、と無意識に思い込んでしまっていて、でも現実は違っていてショックを受けてしまう、そんなことが時に起こります。自然災害などもそうです。
無意識な思い込みは、変化が想定できない状況になっているのですが、それは変化を想定することにエネルギーが必要だからであることと、起こる事がすごく稀なことをいちいち想定していたら生きにくくなるからです。
私の場合の最近の例です。母親の老化にハッと気がついた瞬間がありました。医療機関でその事実を確認した時にはショックでした。そういえば、と思い至る状況がありましたが、その時々は何事もない母の後ろに隠れてしまい、というか私が隠してしまい事実を突きつけられるまで認識できていませんでした。
人を外観でパッと判断することは、おそらく人類が長期間、本当に長期間敵や環境と直接に戦って生き残って適応して磨いてきた能力でしょうから、それは自由に操られる必要があります。
そのような気づきがうまくいくためには、興味と関心がその対象に注がれている事が必要条件です。無関心な対象には気づきは起こりえません。

思い込みのあやうさ

超介です。
あの人はあのような人であると、肯定的にしろ、否定的にしろ思い込んでしまうことは人間観として正しくはありません。
正しくはないのですが、そのような思い込みで人を見てしまう弱さを私たちは持ちやすいようです。そう思った方が理解しやすく、何かの説明をしたり、時には自分の行動を正当化しやすいからです。
特に自分の近くにいる人ほどそのような目で見てしまい、時には関係をうまく作れないことがあります。ありのままの事実を承認することのなんと難しいことか。そのようにできない自分の中に潜んでいるものは何か?
事実を承認して、そして何ができるかを考えて行動できる人でありたいと思います。
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良い質問(理由を説明する)から日本語が鍛えられる

超介です。
    メタ認知も言葉で行いますから的確な日本語を有していないとそれは始まりません。比較的簡単な、ゲームのような思考はそれほど多くの日本語は必要ありませんが、少し込み入ったり抽象的な思考をするにはそれ相応の日本語を駆使しないとできません。私は、日本語で書かれた英語の文法書などでさえ、未だにすぐに理解できず(笑)、哲学書などはチンプンカンプン、論理を追うことができません。私は、本を日本人の平均と比べても多く読んできた方だと思うのですが、言葉は少し知っていても思考は深くない(恥!)とよく感じます。
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  かつて、仕事上の必要性から、論理的思考等の本を読んだり、フェルミ推定の問題を解いたり練習してきましたが、実生活において思考の積み重ねをした経験が少ないので、身についているとは言い難いと感じます。日本語が使える、ということは日常会話ができるというだけではなく、実生活や仕事上の課題を見つけて、理解して、さらに答えを見つけるということができるか、です。なぜならば、それらは全部日本語を使って考えているからです。どうすれば良いだろうか、という問いと、その答えも日本語でおこなっているからです。その思考はAIには絶対にできません。
    それは日常生活で感じる疑問を大切にし、その答えを自分の頭で考えることから深まっていきます。世界について興味を向け始める子供の時代から、その思考が、つまり日本語が、習慣付くと効果的です。そのような疑問が普通に起こる環境は自然にこそ多くあると思います。自然で遊ぶことから子供はそれを学ぶことができます。それはその人の成長の鍵になると思います。

必要な努力を理解する(メタ認知と日本語)

超介です
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クラシックギターを練習する時、ひとつの曲が弾けるようになるまでに、現在の私の実力の場合は、1、2分程度の簡単な練習曲ですが、いくつかの段階を経ます。まずその曲がどのようかを譜面や、時には音源が有る場合は、それを何回か試聴して理解します。そのつぎに右手と左手の運指を一小節づつ譜面を見つつ確認します。それできれば、最初はゆっくり弾いて、それを繰り返します。譜面を見つつ一通り弾ければ、その後は繰り返しです。いまの私のレベルで、次の曲に進むためには、およそ300回は最低でも繰り返さないと到達出来ません。ということが分かりました。そして現在、課題として練習する曲の場合は、1日最高5回まで弾くことにしていまから、最低でも2ヶ月は練習することにしています。
もちろん、生まれ持っての「才能」とそこまでの学習体験による差はあるでしょうが、ある分野での学習をしていく時に、どの程度の努力とトレーニングを伴う作業が必要かを理解することはとても大切です。それがないと、そもそも継続ができません。このために必要な能力がメタ認知、つまり客観視です。人の学びをサポートする仕事をしていて、このメタ認知、客観視する必要性を感じ、また学ぶ人にそれどう理解してもらうかに注力しています。
このメタ認知、客観視する力を支えるのが私の仕事においては、言語力だと感じています。言葉で伝えようとする時に、その言葉の意味を相手が理解できていない、あるいは実感できていないと、伝わらないように思えるのです。会話レベルの日本語だけではなく、思考を支える日本語を駆使できないと伝わっていかないように感じます。

徹底してやる

超介です。
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社会が苦手な中学生が、春季講座で学校の課題をこなしていました。1回めは教材に書き込んでやって、2回めは教材に、出来た、できなかったがわかるように解答欄に色分けしたシールを貼って答えを隠してやり、さらにその後今度はその教材の各ページをスマホで写真に撮りそれを見て解き直していました。何回やったの?と聞くと、だいぶやりました、と答えました。すごいね、徹底してやってるね、じゃあこれをやって見る、と別の教材を渡しました。
あまり得意でない、苦手なことを徹底してやることはなかなか難しいことです。それをこなすために絶対必要なのは能動性です。この能動性を得るためにはこうすればできるようになるという合理的な考え方を持つことです。私は継続力が持つ可能性を信じています。それを教えてもらったのは職場の上司です。そしてそれを、何冊もの啓蒙書等本を読んで確認しました。
効果が出ない時期にも、適切な努力を継続している限りいつか効果が出てきます。階段状に変わっていく成長曲線があることを知っていれば、それも努力を継続させる動機になり得ます。効果は目に見える効果です。
でも目に見えなくともその人が継続して努力を続けている限り、何かの良い変化を感じているはずです。内面的な変化は学習者が自ら探して確認することができるのです。この作業を良いコーチは学習者と同じ視点に立って手助けし、承認します。それは学習者にエネルギーを与えます。

やる気が出ないので勉強できない??

超介です。

私の教室では、カリキュラムは塾生が全部決めます。教科も、内容も、方法も塾生が決めます。私はコーチとして関わるのみです。もちろん質問には答えますし、塾生が決めることに感想を述べたりはしますし、時には提案も行います。さらに、ネット上の教材やら、様々な教具、かなり幅広いジャンルの書籍、パズル、おもちゃ等々を自由に使えるように置いています。塾生たちは自分ができることから始めます。そして、通塾しているうちに自分なりの学びのスタイルを身につけていきます。そうなると自信が出てきて、どんどん強くなります。
塾生は、一コマ90分間、自分のすべきこと、したいことを やります。それは自分と向き合うことです。しかし時には「やる気が起こらない」といって悩む者も現れます。時間もあって、眠くもない、しかし学習がすすまない、学習に集中できない、という状態です。

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しかし、この状態はとても大切な機会です。自分の中でセルフコントロールできない(と思っている)状態があること、そしてそれにどう向かい合えるか、それを知ることは人の成長に重要だからです。その方法として「邪魔するもの」を想定してそれを取り扱う方法もあります。ある人は「象使いと象」になぞらえて、状況をその人自身に理解させています。脳の機能から説明する人もいます。その時々に応じて対処するのが私のコーチとしての仕事です。
それは、大人の場合も同じで大人の場合は子供の「やる気が起こらない」の理由に対応するのは、多くの場合は「忙しい」とか「何々があるので」とかが多いようです。
それらの理由は、そのように考えればその状況の説明がつくので、そう表明しているだけです。多くの場合はじっくり取り組むとできることであったり、やらないでいいことであったりします。ただ、できることから始めればよいだけであって、やる気は必要ありません。継続していると副産物としてやる気はでてきますが、なくてもできるのです。

相手の立場に立つ

超介です。
人間関係でも、組織と組織、国家と国家においてもどのような関係を作るかは、とても重要な選択です。時には関わらない方が良い場合は結構あるように思います。ここでは、関係を良くしようという選択をした場合においてのことです。どのように選択するかの過程についてはここでは書きません。
相手の立場に立って考えるとは、正確には「たったつもりで考える」のが精一杯の意味で、「正確に相手の立場に立つ」ことなどは基本的にできません。そこから考えれば、まずは理解するように努力して、「このような意味かな?」と想像したり、その範囲を絞りこむぐらいです。
上の者が下の者の行動を見る時、上から目線で、批判的に見、考えを伝える、意見を述べる時には「相手の立場に立ったつもりで考えていて」そしてそれが相手に受け入れてもらえないことがよく起こります。その結果、関係がまずくなることが多くて、関係が疎遠になる、衝突が起こるということがそこらじゅうで起こっています。
そのようなことは親子や、生徒先生あるいは上司部下等の近い関係ほど起こりがちです。相手のことをわかっていると判断してしまいがちだからです。私も、塾で働いていた経験から、そのような苦い経験を繰り返してきました。学習態度が良くない塾生を否定的に見、叩き直そうとしたり批判を続けたりして結局は休んだり、退塾してしまったり。塾の場合はやめれば済みますが、そうでない、あるいは閉鎖的な場合やら、離れられない強制力が働く場合はさらに悲劇までが起こる場合があります。家庭やら、学校、あるいは企業なども離れればいくところがない、あるいは生活できない場合です。
ED187B1E-86A2-4753-830C-CD5988F80ACEいくつかの苦い経験から私が学んだことは、「理解できると思わない」けれどそれに向かい「努力を続ける」ということと「尊重」することの有効性です。それを維持するだけでも、関係がずいぶん変わりました。こちらの方がより良い結果に結びつく可能性が高まるように思うのです。そのような態度で接していると、突然に相手が心を開いてくれたように思える瞬間(心にブリッジがかかる)があるのです。それは、はっきりと五感で自覚できるのです。

身の回りのものでやりくりする力

超介です。
「分数ができない大学生」という本がありましたが、大学生でできないのであれば当然高校生にも相当な数の「分数ができない高校生」がいると思います。
ある高校生が積分計算をしていたときのことです。計算途中で帯分数が出てきてそれを計算するときに「帯分数ってなんでしたっけ?」と質問してくるので「えっ‼️ 知らんの?」と聞くと「小学校の時、分数の計算が苦手やったんです。」と。帯分数の意味と意味とその加減乗除を簡単に説明しました。
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わたしが驚いたのは、そのような算数の基礎知識がないままに、よくぞ積分計算ができるようになったな、ということです。中高での計算、関数、方程式、図形、統計等々の内容をよく乗り越えてきたな、ということです。ここ2年ほどの彼女の数学の質問は、たしかに、どの場合にどの種の計算をするのかという型に関することが多かったのです。理由を説明しても、其処は理解せず、その方法、結論だけを覚えていたようです。
高校内の授業も「この場合は、こうする」という説明に注目して聞いたようです。彼女のノートは、その「場合分け」が赤で記入されていて、計算もびっしりと書かれてます。確かに計算はこまめに、きちんと正確にできています。定期テストは平均点よりかなり上でした。
彼女なりのスタイルに感心しました。かなりの試行錯誤をしつつ、ここまで追求してきたんだなあと、思ったからです。小学校の時に身につけるべきことを忘れていた、あるいは学ばなかったのは別にして、いまわかっている、あるいは身につけているものでやりくりして現実に対処するそのスタイルは大変有用だからです。

意欲と自信が生まれる過程

超介です。
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2月中旬に1泊2日で、四国松山を4年ぶりに自治会役員5名で訪問しました。市内のお城や、道後温泉には40年間のうちに、よく行きました。住居が近く、其れらの観光地から徒歩10分内にアパートを借りたり、あるいは車で15分ほどの距離に家を建てたりしていたのです。気軽に行けました。夕方、城山から瀬戸内海を見、故郷丹波の方向を確かめたり、道後温泉本館の湯けむりの湯船の中や、陽光が指す新しい椿湯でゆったりと時を過ごしたことがありました。それらの地へ4年ぶりに訪れたとき、過去の個々のエピソードではなく、まず、愛着の様な感情が湧き上がりました。それは、自然に沸き起こってくる心地よさです。現実世界や心の中での何回もの出会いのうちに、はっと気がつく「恋愛感情」と同じです。少し切なさを帯びた感情。繰り返して訪れたり、出会っているうちにそれら、あるいはその人をよく理解したり、其処に含まれる一定の形、型に気がつくうちに沸き起こるものです。それらの形やら、型は自分にしっくりと合って安心したりすることができるものです。その人の感じ方、スタイルと共鳴しているのです。時に同じような人を好きになったり、その人の行動にその人らしさが現れるのは、その原型、原形があるからだと思います。
そのことによく似た体験、つまり繰り返してある行動をしていくときに人の心身に産まれてくるものに「意欲」そして、そのあとで生まれてくるものに「自信」 があります。多くの人が、そのような経験を重ねて自分を作っていきます。運営している塾でも、塾生たちの学びを見ているとそのスタイルをうまく発展させている人、その準備をしている段階の人など様々。うまく発展させている人には、意欲と自信が派生しています。そして、そのうちに、こだわりと自由さが同時にあることは大切なポイントだと思います。この自由さは開放性のことであり、あることにこだわりつつ、つまり継続しつつ、一方で新しいことも取り入れていく開放性。これらの人たちがそれぞれに進化していける場を提供していきたいと思っています。