社会的適応

超介です。

 生前と死後、私たちの肉体を構成する分子、原子は自然の中に拡散していますが、生きている間、それらは独立し、まとまりを持って世界を動きます。生前と死後の意識も同様に宇宙の中に拡散、埋没していると考えれば、それは区別ができない大きな塊、宇宙と一体化しているといえます。それが生きている間は、大きな宇宙の意識の塊からこぶができるように、一部飛び出て独立して動き始めるのです。どこの部分から飛び出るかで、その特徴が生まれてきて、個性が生まれる。そう考えると、自分と他人が違って見えるのは当然であるし、違わないと存在しないともいえます。
 他人との違いが大きいと、不安を感じたり、さらにそれを指摘されるとその不安が大きくなったりすることもあります。でも肉体も意識も生まれてくる、つまり分かれて出てくるのは、それまで一体であったものと違いが出るというところに意味があるのですから、違いを感じて当たり前です。少し狭い意味に社会的適応を捉えるとその不安を解消するために、人は規範的なものを学び、部分的一体化しようとするのかもしれません。
 人と同じように感じることができない(正確に言えば他人の感覚と自分の感覚の違いが同じであるということは証明などできませんので)、人と同じように感じると信じることができない感覚はすごくまっとうです。たぶん程度の差はあってもほとんどの人が、このような不安を持っているか、持った経験があるのではないでしょうか。
 2016年度上半期芥川賞受賞作品「コンビニ人間」を読みました。この小説は上記のような生前、死後と生きている間の肉体と精神のイメージを僕に与えてくれました。

One thought on “社会的適応”

  1. キヨシです。
    違いがあることをどうとらえるか。
    それは自分次第だということですね。

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