出会い(その6)

               
 超介です。

 デンマークが発祥の地で、イギリスでも始まり、1979年に日本の世田谷区でスタートした「冒険遊び場(プレーパーク)」という施設があります。すでに日本では同様の活動グループが200以上あるようです。先日、天野秀明氏という、世田谷での活動に最初から取り組まれている方の講演会に参加してきました。

(以下、演者の話から)
 子供が「遊び、育つ」時期がある。それは 遊ばされる、育てられる ではなく遊ぶ、育つというように自ら始まるものである。やってみたいことがあるかどうかは、人として生きていくときのエネルギーの発現である。それゆえに、それは魂の活動である。その子の独自の世界の構築である。

 やらされている遊び(学習も)は雑巾を絞るようにいつかは水(エネルギーが)が出なくなってしまう。やりたい遊び(学習も)は集中を生む、それは尽きない。

 子供のやりたいことは あぶないこと(A)、きたないこと(K)、うるさいこと(U)で大人はそれを悪と捉えてしまうが、遊育では、このAKUを受け入れることからスタートする。だから大人の役割は、子供を承認することである。おまえ、おもしろいな、と。

(こんな本を書かれています)
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 子供 が自由にふるまえる時間と空間が少なくなっていて、そのことが多くの発育上の課題を残す。さらにはある節目を迎えたとき(たとえば教育課程を終えたとき)、自分を見失い、つまり生きる道を見つけられず迷路にはまる。

 教育コーチングと目指すところが重なります。

5 thoughts on “出会い(その6)”

  1. 「AKUを受け入れること」
    おもしろいですね。うなずいちゃいました。:wink:
    未だに、
    あぶないこと、きたないこと、うるさいこと、
    大好きです:mrgreen:

  2. キヨシです。
    遊ぶという自立語が大事ですね。
    決して「受け身」ではなく自主的に。

  3. どんです。
    >大人の役割は、子供を承認することである。
    >おまえ、おもしろいな、と。
    …そういえば、最近「おもしろいな」と子どもたちを
    素で受けとめられる瞬間が多いことに気付きました:**:
    …と、同時に…
    我が子だけは、なかなか素で受けとめられない
    自分であることにも気付きました:ase:

  4. りんです。
    どんちゃんと同じく、
    私も、我が子のAKUを受け入れられないこと、
    あります=:[
    息子の口癖は、「田舎に引っ越したい」です。
    思う存分、AKUが出来るらしい・・・。

  5. 超介です。
    子供にはAKUが必要だと思います。
    そこから育ってくるものが
    いっぱいあります。
    でも見守ること難しいですね。
    だから、こそこそと子供が遊べる
    秘密基地みたいな、
    隙間が世界にいるみたいです。
    (もちろん私もほしい秘密基地)

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