不落因果、不昧因果

超介です。

小豆を煮て、砂糖で周りを直方体に固めた、出雲の和菓子「薄小倉」をいただきながら、「自分をゆるす」について考えていて、かなり前に読んだ本(「安岡正篤」のなにかの講話集だったと思います)で知った松平不昧と号したお殿様を思い出しました。

不落因果(因果に落ちない)、不昧因果(因果に眩まされない)というのは、大雑把にいうと、禅宗の言葉で何事にも迷わされずに生きる姿勢をいうようです。でもこれは言うが易しで、よくよく注意して、振り返っていかないとできません。その感覚を言語化するのはちょっと難しい。

因果とは、この世の出来事は原因と結果で繋がっていて、現れた結果が次なる事象の原因になって、というふうに連鎖していることをいいます。原因から結果が派生する、その途中経過を業といいます。悪い因でも業次第で良い果を得ることが出来ます。逆もあります。これが因果律、この世の中はこの因果の糸が複雑に絡まっていてできているとする見方です。

でも、因果律に囚われると、そこからは運命論的に生きてしまい、運命の糸に囚われているかの如くの考えになります。さらに、そこからは抜け出しにくくなる。つまり、もう自分の運命は決まっている、かの如くの見方で、自分、世の中の未来を見てしまう傾向になる。「どうせ俺は、どうせこの世は………」みたいになるわけです。

禅宗の百丈和尚という人の教えは、因果に落ない(不落因果)のではなく、因果からは抜け出せない、しかし因果に眩まされるな(不昧因果)と、です。それを肝に命じて、出雲松江藩の第七代藩主松平治郷は自らを不昧と名付けたとのこと。

不昧因果は、コーチングで、ありのままの自分を見つめるー自分をゆるすーということと繋がっていると思います。自分を許せたとき、そのときは、それまでの囚われに気がついたとき。そして、自由に次の一歩を踏み出すエネルギーを得るのです。

ややもすると、不落因果にこだわる傾向から、僕は、状況の中で生きていくときに、それを誰かの所為にしたりしないで、そのままそれを受け入れ(これがちょっと難しいのですが)て、自分がどう行動すれば良いかということを常に考えて進んでいこうと思います。自分の心の内面のありよう次第で変わり、変われる、それが僕の不昧因果。

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