自律と学び

超介です。

自律とは、「自立している状態からさらに意識して何か行動したり、制限したりしていること」と、勝手に定義しています。自律している、その時の状態は脳により深く刻まれるように思います。少なくとも、習慣のように意識せずとも行動するのではなく、きちんと意識して何かを行う方が学習には効果的です。

人の学びを観察していると、それがよくわかります。記憶の伴う学び、例えば、漢字の書き取りを行なっているとき、同じ漢字をただ、何回も繰り返して書くことはあまり効果的ではありません。そうではなく、漢字を構成する部分のうち書きにくいところだけを意識して、手本を見て一回だけ書く、そして今度は手本を見ずに一通りかく、そのような自律的な学びの方が記憶にのこるのです。

英単語を覚える場合も、例えばrepairを知っているとき、似た意味を持つrecoverが新たに出てくればその2語の違いを理解する、さらにrestoreやreformが 出てきたときそれらの違いを理解するというようにします。違い、共通点を見つけたり、それが使われる文脈やら背景を理解するのです。そうしていけば、そこには混乱が生じず整理ができて、無駄なエネルギーを使わず収まりがつきます。

数学の問題を学ぶのを見ていると、それはよりはっきりとして表れます。数学ができない人はその解き方の意味がつかめていない場合が多いのです。理論を理解して解くでも、理論を理解せず、場合を分けてとくでも、どちらでもいいのです。自律的にとければできるようになります。最初は、場合に分けてといて解き方を覚える、それから次に理論を理解するのが一般的な手順です。できない人はそれができないのです。

これらのことには、集中することとそれをある一定時間持続すること、つまり我慢することが必要です。

松山再訪

超介です。

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40年間過ごした松山を4年ぶりに訪れる機会がありました。18歳から58歳までを過ごしました。この間に其処で大学に入学し、就職して、家庭を持ち、子育てが終わり、退職してそして18歳まで過ごした丹波に戻りました。今回、道後温泉にも、松山城にも訪れることができました。40年間にはそれらの観光地にも一人で、あるいは誰かと一緒に訪れましたが、それらの思い出は個々には浮かびません。

松山での40年のうちに住居だけでも9回引越し、仕事でも松山だけでなく南予にも、東予にも香川にも行き来してきたのでこれらの地域に対する想いは深くて広いです。

今回、道後温泉本館前や、松山城の広場に立った時にジワリと切ない感情が込み上げてきます。それは悲しさでもなく、嬉しさでもありません。その地に対する愛情に近い想いです。時に、断片的にあるシーンがそのときの自分の感情とともに脳裏へ蘇り、涙腺が緩みます。

見知らぬ土地へ、誰も知った人がいない土地へ18歳で行き、58歳で去るまでなんといろいろなことがあったのかと。それらを整理して、次の人生に向かうべくスタートした4年間です。準備をしながら仕事にも私生活にも課題を決め進みだしましたが、この40年間は貴重な体験財産となって今を支えてくれているようです。

青写真を描く

超介です。

やりたいこととやることの間には何があるんでしょうか。やるべきこととやりたいことが一致していても、それとやることの間にはギャップがある、時があります。もちろんギャップなくスムースに進むときもあります。

私がそれを知ったのは、仕事ができる先輩からでした。答えは完成青写真が描けているかどうかです。少なくとも、行動の起点となるところは最低クリアに描けてないと始めることはできません。彼は、いつも明瞭に青写真を描いていました。それは計画、企画書あるいは戦略書でした。事業運営に関わることですが、分野が異なっても同じです。人が目的に向かった行動を起こすのは、どこに向かっているかが明確かどうかで随分異なるのです。

やりたいこと、やるべきことはわかっているけれども行動が結びついていないとき、それの青写真が明瞭でなく、なんとなくでしか描けていない場合が多いのです。さらに、青写真以上にカラー写真だと行動して達成もできます。

苦手な分野への取り組みは時間をかけて周辺から

超介です

人生の様々な場面で、考え方やら、行動からこの人はこんな人なんだ、と理解することは悪いことではありません。「一事が万事」というのはそのことをもいうのだと思います。

私には論理的な思考が苦手だと思った時期がありました。特に、それを感じたのは確率や生物の遺伝、地学の天文、物理の計算を高校になって学んだ時からです。理系に進みたいけれど、この理詰めで考えることが不得意であったので、進路選択に迷いがありました。理系、文系にかかわらず議論も苦手でした。観察や、事例を調べることは嫌いではなかったのですが、体系化、理論化されているものをんだり使ったりするのは苦手だという意識がありました。

それでも、何とか大学を卒業して、就職して30代後半でこの不得意分野を何とかしたいと考える時がきました。仕事上の議論やら、人間関係においてうまく進めることができず、何とかしたいと思ったのです。その時に取り組んだのが知能クイズでした。数字パズルや論理クイズの本を買ってきて、何冊も解いていると、コツがわかり面白くなり始めました。仕事で企画書、計画書を作るようになると、その関連でロジカルシンキング、論理思考の本も読むようになりフェルミ推定の問題集を解いたりするようになりました。これらのきっかけになったのがクイズでした。
いまは、得意というわけではありませんが、苦手意識はありません。最近、英文を読んでいるときでした。わたしには難しい、わかりにくい文を読んでいるとき構文理解とクイズを解く思考が似ていると感じることができました。もし苦手意識を抱えたままであったら、英語を学ぶことを諦めているかもしれません。
ひとの能力や性格の弱点は様々な場面でやりたいことを阻害するかもしれません。それらは、その場では根本解決はできないまでも、意識の片隅にそれを置いとくことはできます。そして、チャンスがあった時にちょっと手を出してみると面白い展開がありえます。

人は様々な場面で同じ問題に悩まされます。特効薬は見つけにくいですが、その一点を突破すると、事態が前に進み、違う場面が開けるように思えるのです。それは、いくつになっても。

 

対話の失敗

超介です。

人と対話していると「ああ、この人はこんな人なんだな」とその人の性格や行動様式が見えてきて、理解がしやすくなる。それとその人らしさが見えてくる。そうすると、少なくとも相手に対する自分の態度が決まって自分は安心する。「たぶん、こういってくるだろうから、このように対応しよう」というように。それは、手っ取り早くて経済的なコミュニケーションの取り方だ。

しかしながらこの方法の弱点は相手の立場に立った会話が成立しにくいことにある。相手は決められてしまうので、何を言っても枠にはめられたような感じがして、話を聞いてもらっている気がしないのだ。当然、心は開きにくくなる。傾聴ではない。

私は、特に身近にいる人に対してはこういう風に決めつけで話をする傾向がある。そして、身近な人もそのように私のことを見る傾向がある。それで、このようなことが重なると時には関係に行き詰まりが起こる。

仕事を増やす

超介です

退職し、故郷の丹波へ戻り約4年が経過し、小さな個人塾を始めて3年が経ちました。その間は、自治体の仕事以外は、全部自分の意志で決めることができる立場で過ごしています。やりたいことをやりたいようにして一日を過ごしていますが、それが増えてくるとき、工夫が必要です。

今やっていることに加えて、自治体の仕事(役割)が減る予定なので、これからは農業を今まで以上にきちんとやっていこうと考えています。午前中から午後にかけては英語の勉強とギターの練習、そして農業に費やし、昼過ぎからは教室に行って塾の運営をする、その間に家事をこなす、大雑把にはそのようにします。英語の勉強もギターの練習も上達したいのでもっとたくさん量を増やしたいのですが、時間をとっても集中できません。途中で疲れてきて、うまく進まないことがあります。
豊かな山々に囲まれた地に住んでいるので、自然観察やら、登山、日本海への釣り、それに本も書くので、それぞれの仕事をどのように工夫してこなしていくのかを考え、試しています。仕事のスタイルを磨いていきます。